Ginseisha,Japanの活動

昭和初期の和歌山と台湾

昭和丙子台湾屏東之旅(1936年 屏東)のダウンロード

昭和庚寅台湾後山之旅(1940年 台東・花蓮港・宜蘭)のダウンロード

和歌山県T市の旧家にて、箪笥の奥から発見された一冊の大学ノート。書かれていたのは、戦前の和歌山県人による台湾旅行の記録でした。この記録には当時の台湾南部における花柳界及び黒社会事情、パイワン族の蕃地視察などが詳細に言及されており、日記に書かれていた阿部定事件や食事の話題から推測すると、時期は1936年5月頃であると思われます。

Ginseisha,Japanでは、2018年初夏よりこの日記の翻刻作業及び取材に着手し、2019年冬にリトルプレス「昭和丙子台湾屏東之旅」として刊行し、ウェブサイトでもあわせて公開しました。あわせて、1940年秋頃に台東から宜蘭・礁渓温泉を経由して基隆港に帰る際に書かれたメモ書きも「昭和庚寅東台湾後山之旅」(後山は台湾東部の古称)としてウェブサイトで公開しました。

テキスト

昭和丙子台湾屏東之旅の解説Explanation: Author, Wakayama, and Pingtung, Taiwan

ドクター・イエロー  ※戦後の南紀白浜観光に多大な功績のあった台湾人黄秋茂氏に関するノート

Ginseisha,Japanからのメッセージ

2019年末に刊行したリトルプレス「昭和丙子台湾屏東之旅」につきまして、現在に至るまで多数のご用命を賜り誠にありがとうございます。

発表に際しては、ご遺族の方が名前を出すのを希望されなかったことなどから、氏名等の一部改変やイニシャルにより対応した部分があり、その後、現地取材や国立国会図書館における文献上の調査も数回にわたって試みましたが、新型コロナウイルス感染症拡大により海外渡航が絶望的となり、また当時の物的な記録が非常に少なかったことから事実の検証がほぼ不可能でした。

それでもその後2年以上にわたって断続的に追加調査を行ってみた結果、複数の記述において気になる点がありました。たとえば、この日記は1936年に書かれた内容ですが、その時点において森永のチョコレートは台湾では生産されていなかったことや、屏東中学校の記述があるものの当時屏東には中学校が存在しなかったことなどから、おそらく筆者が事実を錯誤していたり、現地で書いたものではなく、後日(1940年秋以降)日本に帰ってから書いたものである可能性を考えています。その他、ガランビ灯台に関する記述などそのまま当時のガイドブックを引用していることがわかりました。もともと刊行を想定しているわけではない私日記であることをご理解いただいたうえで、あくまでも当時の台湾の風俗が反映された「読み物」としてご一読いただければと思います

ともあれ、このリトルプレスの刊行後、2020年1月に和歌山市域で発行されているコミュニティ誌(ニュース和歌山)にて紹介され、この記事がインターネットニュースに転載されたことから、内外の多くの方よりご用命を賜りました。日本統治時代の台湾に対する関心の高さに改めて衝撃を受けた次第ですが、残念なことに、2020年4月、主人公のご遺族の方から「(家宅整理と同時に)ノートは廃棄した」という連絡があり、アーカイブの重要性について痛感した次第です。

なお、続編となる宜蘭編については、今般の新型コロナウイルスの感染拡大の影響により取材の継続が困難となりましたので、2020年4月にPDFファイル形式で公開することとし、2022年に改版「昭和庚寅台湾後山之旅」を公開しております。あわせてご一読いただければ幸いです。

このほか、終戦直後の和歌山県田辺市における台湾引き揚げの状況を聞き取った記録、1970年代後半(昭和52-54年)の台北や礁渓温泉の「観光」の実情を聞き取った記録、そして1995-97(平成7-9年)年頃の台湾についての記録をそれぞれまとめたうえで、後日刊行する予定です。特に1970年代当時に横行していた悪名高い台湾花柳観光の聞き取りと、1990年代中葉に流行した「台独(第二期の台湾独立建国運動)」は、解禁された日本文化の影響と新しい民主主義の萌芽に気づかされます。また、制作ノート(昭和10年代の台湾)も順次公開しておりますことを報告いたします。

なお、リトルプレスは在庫が払底しましたので、本サイトからダウンロードいただければと思います。(代表世話人・松尾)