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和歌山縣立師範學校的大陸學校旅行
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ティーンエイジャーがとらえた世界
昭和初期の日本では満鮮修学旅行や蕃地視察とよばれる旅行が盛んに行われていました。
満鮮修学旅行とは、昭和初期に日本の中等教育機関などが行っていた学習旅行のことで、当時日本の植民地であった満州国(現在の中国東北部)と朝鮮半島への旅行を指します。
一九一〇年に朝鮮半島を併合した日本は、一九三一年の満州事変を機に中国大陸支配を強化させていきますが、同時期に満州や朝鮮の実情を見学し、日本の発展との結びつきを理解することを目的とする満鮮修学旅行がさかんに行われるようになりました。なお、これは男子のみならず、女子においても行われていました。
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満鮮修学旅行の行程は、日本国内から連絡船や列車を使って満州国や朝鮮半島の諸都市に赴き、現地の社会を観察しています。
戦後は当然廃止され、かかる内容の修学旅行はまったく行われなくなりましたが、当時の学生が体験した現地での見聞やこの旅行によって形成された価値観はその後の学生に影響を与え続け、また満鮮修学旅行に関する資料や記録は、当時の日本の教育方針や植民地、そして当時の学生の価値観を理解するうえで貴重な歴史資料として残されています。
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一九三七年の修学旅行
このたび、弊団体では『和歌山県師範学校校友会会誌 第三十一号』(一九三八年三月発行)のp.127-141「満鮮旅行記」を翻刻しました。この旅行は一九三七年五~六月に和歌山県師範学校の学生が修学旅行として満州国・朝鮮半島を訪問したものです。なお、旅程図は次のとおりです。
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修学旅行では新京の忠霊塔や奉天の同善堂などを訪問しています。
忠霊塔とは、戦争に出兵し戦死した者の霊を顕彰するために建立された塔のことで、新京にある忠霊塔は高さ三十五メートルを誇り、五月三十日に例大祭が行われており、当時の修学旅行では必ず参拝する場所とされていました。また、同善堂とは清末に設置された総合的な社会福祉支援を行う施設の名称で、地域社会にとって非常に重要な役割を果たしていました。修学旅行の記録から、支援事業に携わっていた人々のなかには和歌山県出身者も含まれていたこともわかりました。
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Ginseisha,Japanからのメッセージ
表題は、かつて和歌山県師範学校を卒業した方から和歌山大学教育学部紀学同窓会に送られた書状に記されていた内容で、当時の師範学校の修学旅行は中国大陸で、旅程には朝鮮半島北端の街・羅津(現在の羅先特別市)から満州国に入り、ハルビン・新京(現在の長春)・奉天(現在の瀋陽)・大連を経由し朝鮮半島を南へ抜けていく経路が示されており、当時の記録を探そうということとなりました。幸い記録は発見に至ったのですが、内容を読み解くためには当時の知識が相当必要で、難渋していました。以下に当時を知るためのキーワードをいくつか挙げることで説明に替えたいと思います。
特急あじあ 当時の満州国を代表する特急列車。平均時速八二・五キロと世界最速で、同時期の阪和線特急も「あじあ号」とほぼ同じ速度で「とにかく速かった」と言われていたが、大連からハルピンまでの九四四キロを走破する「あじあ号」とはスケールがまったく異なる。また、当時の満州国には「ひかり」や「のぞみ」という名前の急行列車も存在していた。
大連駅 大連の新駅舎が供用開始されたのは一九三七年六月一日。和歌山県師範学校の修学旅行では、この供用開始直後に大連駅を訪れており、新駅の竣工に合わせた訪問であったと考えられる。駅舎は混雑に対応するため、入口が二階・出口が一階と、現在の空港のような構造になっていた。この当時の駅舎は、現在も使用されている。
オイルシェール 頁岩(けつがん)層と呼ばれる硬い地層に含まれる原油のことで、端的に言うと、石油を含む岩石。当時は「石炭から石油がつくられる画期的なマテリアル」とされていた。
同善堂 当時の修学旅行記では必ず出てくる奉天(現在の瀋陽)の養護施設。「奉天市民の福利施設として、病める者に温かい手を差し伸べる同善堂は、慈善院と病院の双方に優れた設備を備え、この種の事業の代表的な施設として知られている」とされており、清末から民国時代にかけての中国大陸には、同様の名称を持つ施設が多く存在した。
娘娘祭 当時の中国の民間には、三姉妹の神様を祀る祭りが伝えられていた。この三姉妹のうち、一人は福を授け、一人は眼病を治し、もう一人は子を授けるとされていて、旧暦五月に行われるこの祭りでは、様々な女神が祀られ、老若男女を問わず大変賑わっていたが、新中国成立後にはまったく廃れてしまう。当時の満州国では、大石橋で行われるこの祭りが特に有名だった。
忠霊塔 近代日本において、戦争に出兵し戦死した者の霊を顕彰するために建立された塔を「忠霊塔」という。忠魂碑とは異なり、忠霊塔は納骨堂を備えており、塔内に骨壺が安置されている。満州国の首都・新京にあった忠霊塔は高さ三十五メートルを誇り、五月三十日に例大祭が行われていた。当時の満州への修学旅行では必ず参拝する場所とされていたが、第二次世界大戦後に破壊された。
ラマ寺 チベット仏教の寺院。当時のチベットは中国から独立しており、中国各地には独特な形状の寺院が存在し、多くの僧侶・信者がいた。新中国成立後、人民解放軍はラサを占領し、ダライ・ラマ十三世がインドに逃れ、各地にあったラマ教の寺院の多くは破壊された。
あゝそれなのに 古賀メロディと芸者歌手・美ち奴によるこの歌曲は、一九三七年に日本や満州国・朝鮮半島の至るところで流行した。詩人の室生犀星も同年に満州国を訪問した際、この曲があちこちで流れており、辟易したという記録が残っている。しかし、この流行曲の寿命は短く、同年七月に起きた盧溝橋事件以降、不謹慎とされ販売禁止に。
楊柳 楊・柳、いずれもヤナギを指す。五月下旬から六月初旬にかけては、中国東北部で柳絮(りゅうじょ、柳の綿毛)が舞う季節で、初夏の中国を象徴する風物詩として知られている。一九八九年六月四日に起こった天安門事件をテーマにしたとされる中島みゆきの楽曲「EAST ASIA」にも柳絮という言葉が比喩として登場する。
トランプ 当時の修学旅行記には、トランプを内地に持ち込もうとして没収されたという記録がやけに多く見られる。これは、当時のトランプや花札に高い骨牌税が課されていたためで、内地へのトランプの輸入は一つまでが無税とされていた。一方で、内地の花札も朝鮮半島に移出されていて、ハングルで書かれた花札は現在も韓国で製造されている。
馬賊 馬賊とは、清末以降から終戦にかけて中国東北部各地で横行した武装集団であり、リットン調査団も襲われたことがあり、関東軍もその対処に手を焼いていた。馬の名前がつくのは、馬ごと略奪したからという説もあれば、騎乗していたからという説もあるが、どちらも正しい。また、小日向白朗は日本人の馬賊として知られている。
以上
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